ホーム > 特集・コラム > 人気プロデューサー蔦谷好位置が語る「僕はこうしてプロデューサーになった」
蔦谷好位置 Special Interview
人々の心をつかむ音楽が生まれるとき、そこには常にプロデューサーの存在がある。プロデューサーは、アーティストの独自性と世の中の動向を見極めて楽曲の方向性を決め、サウンドを作り込み、レコーディングの指示を出すなど、制作の全プロセスを監督する。つまりは楽曲の売れ行きを左右する責任ある立場なのだ。
今回は、今の日本の音楽シーンを牽引するプロデューサーの中から、若手NO.1との呼び声も高い蔦谷好位置に注目。ゆず、Superfly、木村カエラなどを手がける彼はどのようにして現在の地位にたどりついたのか、その道のりを語ってもらった。
●どんな音楽遍歴をたどってきたのか?
4歳くらいの頃、近所の音楽教室でリズムのお稽古みたいなことを始めて、5歳くらいからピアノを習い始めました。最初は全然楽しくなかったけど、もともと音感が良かったみたいで、聴いた音がすぐにわかったんです。それでほめてもらえるのがうれしくて、“自分は音楽に向いているかも”と子供心に思っていました。
小学生になって少しピアノが弾けるようになると、譜面どおりに弾くのがあまり好きじゃなくて、いつも勝手にアレンジしたり、適当に作った曲を弾いていましたね。課題で出された曲も、こう弾いたほうが面白いだろうって。テレビやラジオで歌謡曲やポップスを聴いていても、“もっとこういうメロディや展開のほうがいいのに”っていうことを考えていましたね。
クラシックも聴いてました。けっこう衝撃的だったのが、小学6年生くらいのときにバーンスタインが亡くなって、テレビで特集番組をやっていたんですけど、それまで思っていたクラシックのイメージと違って、すごく自由だったんです。それからNHKのクラシックの番組とかで、カルロス・クライバーやカラヤンなどの指揮者を見て、これはちょっとカッコいい仕事だなと。それまできらいだった譜面も買いあさって、楽典とかの勉強を始めました。
中学2年生の頃にはジャズにハマりました。もっと自由でいいんだなと思って、独学でジャズ・ピアノを始めたんです。ハービー・ハンコックみたいなファンキーでアーシーなピアノに憧れたんですけど、なかなかうまく弾けなかったですね。その流れで、ハービーをサンプリングしていたディー・ライトを聴いて、ハウスやヒップホップも好きになっていきました。
●どのようにしてプロになったのか?
中学〜高校生くらいの頃は、できれば音楽を仕事にしたいと漠然と思っていましたけど、実際にプロになれるとはまったく思っていませんでした。でも、大学生になるとアルバイトをしたお金で機材を買えるようになって、当時はまだ高かったハードディスク・レコーダーとかを手に入れて曲を作り始めたら、100%まではいかなくても自分のイメージにけっこう近いものができたんです。それをいろんな事務所やレコード会社に送ったら、全部返事をもらえたので、“もしかしてイケるんじゃないか”って勘違いしちゃって。その頃やっていたのが、のちにデビューすることになるCANNABISというバンドで、地元・札幌のコンテストではだいたい優勝していました。それで自信がついたという面もありますけど、まだ若かったせいもあって、自分たちのことを過信していたと思います。
CANNABISでデビューしてからは、音楽に限らずどの世界にもある厳しい現実を痛感することになりました。けっこうお金をかけて作ったデビュー・シングルが思いのほか売れなくて、そうすると次はスタッフの数が半分以下に減っていた。さらにその次、その次と進むうちにライブのお客さんもいなくなっていって……これがプロの現実なんだと思いました。それまでずっとほめてもらっていたのが、だんだん認められなくなって、それでも自分の作る曲に自信はあったので、曲は作り続けていたんです。お金はないけど、時間だけはたっぷりありましたから(笑)。
そんなときに、当時はレコード会社にいて、今は僕が所属している agehasprings(*)の社長の玉井(健二)さんを紹介してもらって、ある曲を渡したら“この曲は時代を変えるよ”っていうくらいの勢いで絶賛してもらえたんです。その頃は僕もちょっと疑心暗鬼になっていたので“ホントかよ”って思ったんですけど(笑)、次の週にもさらに何曲か作って持って行ったら、またすごく良いって言ってもらえて。その最初に渡した曲が、のちにYUKIさんのヒット曲になった「JOY」なんです。当時まったく無名だった僕の曲を、純粋に作品だけで評価してくれた社長の姿勢には、僕もすごく影響を受けましたね。
●自分の音楽を認めてもらうには?
CANNABISが商業的にうまくいかなくて結局解散してしまったときには、やっぱりいろいろ考えました。契約が切れて商品価値のなくなった自分がいろんなところに曲を送っても、誰も相手にしてくれなかったし、それは当たり前なんです。ところが、ちょっと売れるようになると “蔦谷君は売れると思っていたよ ”なんてことを言う人が出てきたりして ……決してその人が悪いわけじゃなくて、プロというのはそういう世界。
でも、音楽を信じている人って純粋な人が多いから、“自分はこんなに真剣にやっているのに、みんな音楽を商売としか思っていない ”って傷ついちゃったりする。僕もそんな気持ちになる瞬間もありましたけど、お金がなくてパンの耳しか食えなかった時期に、それじゃダメだと思って考え方を変えたんです。結局、自分が頑張って結果を出せば、みんな振り向いてくれる。だからまずは結果を出すことだと。
自分の作る曲の、どこが時代に合っていないんだろうということも考えました。そして、受け入れられないのには必ず理由があるんです。“自分は無名だから聴いてもらえない ”ということでは決してない。でも、売れるためだったら何でもするってことは絶対になかったです。自分の中で、音楽に嘘だけはつかないように、これが一番カッコいい、これが一番美しいと思えるものをやり続ける。その上で、自分の作った音楽をたくさんの人に聴いてほしいと、自然に思っていました。そのために、流行っている音楽はもちろん意識します。でも真似はしない。流行を追いかけても二番手にしかならないですから。
●プロに必要なものとは?
今は “○○プロデュース ”というだけで売れる時代ではありません。やっぱり作品が良くないと売れないですよね。それで少し前までは、自分たちの作っているものが最高だと信じる気持ちを大切にしていました。商業的な結果を残しつつ、ちゃんと人の心に残るものを作るためには、信じることが大切だと。でも最近はそれだけじゃなくて、疑うということも大事だと思うようになってきました。これで本当に正しいんだろうか?このやり方で合っているんだろうか?って。
結局、自分で考えることが何よりも大事なんです。今、そこで求められているものは何か、そのために何が必要なのか ……それを考えられない人は、間違いなく消えていきますね。セッション・ミュージシャンだったら、どういう演奏をしたらその曲を輝かせることができるか。シンガーだったら、どう歌えば人の心に響くか。そういうセルフ・プロデュースとも呼べることをしないでプロの世界に残っている人は、僕は見たことがないです。音楽学校でもそれは同じで、大事なことはたくさん教えてもらえますけど、自分に必要なものは何なのかを自分で考えながら勉強していくことが一番大切。その上で、自分を積極的にアピールすることも大事だと思います。
●これから目指すものは?
“誰々みたいになりたい ”というのは昔からあまりなかったですね。20代後半くらいは、絶対グラミー賞とかアカデミー作曲賞を取ってやるって思ってたんですけど、今はまったく思わなくなりました。別に夢がなくなったわけじゃないし、賞をもらえたらもちろんうれしいですけど、目標の感じが変わってきたというか ……とにかくアーティストと一緒に曲を作るのが楽しくてありがたいことなので、それを長く続けて、一生現役でいたいというのが今の目標です。たとえば筒美京平先生なんて、もちろん作曲する数は減ったといえども、ずっと作曲家であり続けていて、今も燦々と輝いているじゃないですか。本当に素晴らしいと思うし、そういうあり方に憧れます。
そのためには、常に新鮮な気持ちで、自分が信じるものをずっとやっていくしかないと思います。それを妄信しないように疑いつつも、ずっと信じて、作り続けていく。その結果、作品が時代を超えて人の心に残ったとしたら、すごくうれしいですね。
写真=ほりたよしか
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