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黒田晃年(Guitar)インタビュー
●ギターはいつ頃から弾いていましたか?
小5の頃に家にあったクラシック・ギターを弾き始め、小6で自分のエレキを買いました。THE BLUE HEARTS やBOØWY、ユニコーンなど、ブリティッシュ・ロックに影響を受けた日本のポップ・ロックが好きでしたね。当時からスタジオ・ミュージシャンになるのが夢で、中学の卒業文集に“プロのギタリストになる”って書いたんです。バンドは見ている分には好きでしたが、人間関係がうまくいかなくなったら音楽どころじゃなさそうだと子供心に思っていて。なので、昔から自分の技術力だけで勝負していきたいと思っていました。
●では、プロになるために音楽学校へ?
そうですね。高校の先輩が音楽専門学校へ行くという話を聞いて、じゃあ俺もという感じで上京しました。実はその頃、アメリカに行きたかったんです。音楽の基本はアメリカにあると思っていて、将来的に日本でやるにしても本場を見ておきたいなと。そういう考えがあったのでアメリカの音楽学校に専門留学できる、東京スクールオブミュージック専門学校に進学しました。結局知らない間に奨学金を受けるオーディションが終わってしまって、留学は諦めたんですけどね(笑)。
●専門学校での生活はいかがでしたか。
勉強になったことはたくさんありますが、耳が鍛えられたということは大きいですね。ギターは弦を押さえるタイミングと音を鳴らすタイミングが合って初めていい音が出ますが、最初は何が良くて何がダメなのかがまったく分からなかった。先生に何度も“両手のタイミングがシンクロしてない”と言われ、録音しては聴くということを繰り返していたら、だんだん耳が鍛えられてきたんです。授業では毎週知らない曲が課題曲として出されるので、強制的に弾かされているうちに基礎力も身に付きました。
●そこからどのようにしてプロに?
専門学校で出会った僕のギターの師匠、福原将宣さんが仕事をくださったのが始まりです。23歳のときに少年隊の東山紀之さんのディナーショーのトラをお願いされて、そういう仕事をやっていくうちに徐々に広がっていきました。ただ、音楽だけで食えるようになったのは少し後ですから、それまでは毎日バイトですよ。転機が訪れたのは26 歳のとき、佐藤竹善さんのアルバムに参加する機会をいただいたことです。最初はオーディションのような形でしたが、気に入ってもらえてツアーにも参加させてもらいました。そこからだいぶ人生が変わりましたね。専門学校は仕事につなげてくれた師匠と出会った場所でもあるので、行って良かったと思います。
●黒田さんは、サポートとしてだけでなく、3年前には初のソロアルバムも発表しましたね。
スタジオ・ミュージシャンという夢が叶った後、ようやく自分から発信していく作業が必要だと思い始めたんです。それまで作曲は苦手でしたが、曲を作るということはミュージシャンにとって大事なことだと気がついて。結果、このアルバムを作ったことによってものすごく仕事の幅が広がったんですよ。関係者に音源を聴いてもらうと、単なる仕事請負人ではなく発信する人という見方をしてくれる。CD を渡した翌日にツアーの話をいただくこともありました。今は2 ヶ月に1 度は必ず自分のライブをやっていますが、ゲストを呼ぶとその分来てくださる方も増えますよね。そこから広がる出会いもあります。自分のライブをやっていなかったらどうなっていたのかと思うほどですね。
●最後に、スタジオ・ミュージシャンにとって必要なことを教えてください。
圧倒的な技術力と読譜力ですかね。スタジオに入ると、その日一日にやる曲の譜面を束で渡され、すぐレコーディングに入ります。ギタリストは譜面を読めない人が本当に多いので、その重要性は訴えたいですね。また、スタジオ・ミュージシャンの仕事には、コードしか書いていない譜面に対してどれだけカッコいいフレーズを入れられるかという、読譜とは真逆のことを求められることもあります。さらにライブになると、譜面を読んだ上で覚えるという作業が加わってくる。つまりスタジオ・ミュージシャンは、譜面通りに弾く作業、譜面を見るけれど想像力を働かせて置き換えて弾く作業、覚える作業、この3 つの行程をやらなければなりません。それから、現場ではアコースティック・ギターの演奏スキルも求められます。頑張っていれば夢は叶うので、これからプロを目指す人たちは、より多くの人とコミュニケーションを取って音楽を成熟させていって欲しいですね。
写真=八島崇
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