ホーム > 特集・コラム > 活動したい街があるのなら、その街の音楽学校に行くのが近道
コトリンゴ(Singer Songwriter)インタビュー
●5歳からクラシックピアノを始め、7歳ですでに作曲をしていたそうですね。20歳でバークリー音楽大学に留学しますが、いつ頃から留学を視野に入れていましたか?
中学の頃からアメリカの音楽が好きで、ずっと向こうに行きたいと思っていたんです。雑誌を見ていてもアメリカの雑貨に目がいったり、とにかく憧れがあったんですよね。音楽を続けたい気持ちとアメリカに行きたい気持ちが常に並行してありましたが、ジャズをやりたいと思うようになってやっとその2つがつながりました。中学3年の終わり頃、ジャズピアニストの大西順子さんやバークリーの存在を知って、“高校を出たらバークリーに行くこと”が目標になったんです。ただ、“日本の大学を出てからでも遅くない”と父に反対されてしまって。悩みましたが、ちょうどその頃に出会ったバークリー卒の先生に、“高校を出てすぐ行くと遊んでしまうから、ワンクッション置いたほうがいいんじゃないか”と言われ、提携校である甲陽音楽学院のことを教えてもらいました。
●甲陽での生活はいかがでしたか?
高校時代に個人レッスンをやっていたものの、基礎しかやってこなかったので初めて学校でセッションをしたんです。周りには年上の方や働きながら来ている人もいて、すごく面白かったですね。個人レッスンも、先生と一緒にピアノ2 台で弾いたり、どんどん実践を重ねていけるのが良かったです。授業外では、ビアガーデンで演奏するお仕事など、先生に来た仕事を紹介していただくこともありました。学校を出てからそういうことをしようとすると大変なので、学校のいいところはこういうところにもあったんだなと思います。
●同時に渡米の準備もしていましたか?
願書やエッセイの書き方を英語の授業で教わったり、いろいろとサポートしてもらいました。学校ではバークリー卒の先生が理論を教えているので、留学しても混乱なく進めるようになっているんだと思います。今は音楽理論や音楽史の単位を移行できるシステムがあるので、さらに魅力的ですよね。
●その後、憧れのバークリーへ進みますが、学校生活はいかがでしたか?
世界中からいろいろな人たちが来ていましたが、志が高い人が多かったですね。ヨーロッパで活動していた一流の人たちがまた勉強するために来たり。そういう人たちが隣の部屋で長時間練習していると、周りの意識が高まることで自分まで変われるというか。私は演奏科とジャズコンポジションの2 つを専攻して、結局4年間通いました。
●卒業後は日本に戻らず、ニューヨークに移りましたね。
バークリーに入ることが目標だったので、その先どうしていいか分からなくなって迷いながら卒業したんです。ボストンは小さな街なので、音楽で食べていくためには働く場所があまりなく。ニューヨークには夜な夜なセッションに出かけてスキルを磨ける店がたくさんあるので、とりあえずニューヨークに行きました。向こうでは、生活のためにピアノ教室で教えながら、自分は何をやるべきかを模索していましたね。そんな頃、ピアノ教室の経営者から教室を引き継いで欲しいと頼まれて。でも、同時期に送っていたデモテープからデビューの話がつながりそうになったんです。
●坂本龍一さんがナビゲーターを務めるラジオ番組に送ったデモですか?
はい。ニューヨークにいながら日本のポップスにすごく興味があって、いずれは日本でという気持ちがありました。2006 年にシングルをリリースしましたが、その頃はまだピアノの先生をやっていたので、休みをもらいながら行き来していましたね。最後はその生活に限界を感じて日本に帰ることに決めたんです。
●そこから再び日本での活動が始まったんですね。最後に、これからプロを目指す人にメッセージをお願いします。
今思えば、音楽学校を卒業したあとに自分が活動したい街があるのなら、その街の学校に行くのが近道かなと思います。そうすれば、在学中から外のお店の様子が分かったり、そのまま仲間ができてその後の活動につながっていきますよね。学校は、そのための訓練をしに行く場所として捉えるのがいいのかなと思います。
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